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高畑勲監督逝去!火垂るの墓などジブリ作品に貢献

エンタメ

宮崎駿監督(77)と並ぶ日本アニメーション界の巨匠で、ジブリ映画「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」などを監督した高畑勲監督が5日、東京都内の病院で死去した。82歳だった。

昨年夏に体調を壊す

高畑勲監督は昨年夏ごろに体調を崩し、入退院を繰り返していた。昨年11月に高畑勲監督に会った関係者によると、以前よりも痩せていて、歩く時は体を支えられていたという。この関係者は「子供のような好奇心でキラキラした表情が印象的な人だが、元気がなく、全く違った人みたいだった」と話した。通夜、葬儀は近日中に営まれる。

映画監督デビュー作は?

高畑薫監督は東京大学仏文科卒業後の1959年に入社した東映動画(現・東映アニメーション)に入社し、63年にTVアニメ「狼少年ケン」で初めて演出を手がけ、68年「太陽の王子 ホルスの大冒険」で劇場アニメ映画監督デビューを果たす。

スタジオジブリの設立に参加

同僚だった宮崎駿とAプロダクション、ズイヨー映像と移籍し、TVアニメ「アルプスの少女ハイジ」(74)、「母をたずねて三千里」(76)、「赤毛のアン」(79)などを演出・監督する。宮崎監督「風の谷のナウシカ」(84)のプロデューサーを務め、スタジオジブリの設立に参加。

「天空の城ラピュタ」(86)でも製作に携わり、「火垂るの墓」(88)がスタジオジブリでの初監督作となる。91年の「おもひでぽろぽろ」、94年の「平成狸合戦ぽんぽこ」がそれぞれの年の邦画興行収入第1位になり、宮崎とともにスタジオジブリの2本柱として活躍。「ホーホケキョ となりの山田くん」(99)以降は、「キリクと魔女」(03)の日本語版翻訳・演出、「王と鳥」の日本語字幕などを手がけている。

手書きアニメを追求

ヒット作を次々と送り出し、人気は世界に広がり、2015年にはフランス芸術文化勲章のオフィシエを受章し。近年は、手書きアニメを追求した「かぐや姫の物語」でアカデミー賞長編アニメ映画賞にノミネートされるなど、国際的な評価を確立し、クリエイターたちの尊敬を集めていた。

徹底した取材によるリアルで自然な世界観に加え、「想像力が羽ばたく余地が生まれてこそアニメ」がモットー。こだわりが強く遅筆で、宮崎監督が「ナマケモノの子孫」と呼んだことも。「柳川堀割物語」は製作費を大幅にオーバーして話題になった。

愛称は?

愛称は「パクさん」。食パンが好きで、東映時代にパクパク食べていたことから、宮崎監督やジブリの鈴木敏夫プロデューサー(69)が親しみを込めて呼んだ。
アニメ作りの情熱や姿勢は宮崎監督を始め、後進のアニメ関係者にも大きな影響を与えた。

火垂るの墓に込めた思い

私自身が岡山で空襲を経験したこともある。小学4年生だった私は6年生の姉と2人だけで逃げ回った。逃げた方向に焼夷(しょうい)弾が落ちてきて、火の海の中で立ち往生した。火垂るの墓の2人より、もっと危険な目に遭った。自分の経験を含め、事実を事実としてきちんと描いた。

悲惨さだけを描いたつもりはない。子どもは楽しみや自由を見つける天才。戦争中も声を立てて笑い、ふざけ合う。自然と触れあいながら遊び、日常のささいな出来事で喜ぶ。そんな姿も描いた。そういう日常を破壊する戦争は絶対に許せない。

火垂るの墓が多くの人の心に残っていることはありがたい。テレビで繰り返し放映され、見てもらえる機会が多かったことに感謝している。ストーリーが分かっていても何度も見てもらえるのは、(主人公の)兄妹2人が生き抜こうとする姿を丁寧に描いたからではないか。

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